TOP > 同好会 > 二豊会 > 吉田神葬墓地 (田能村直入先生の墓所)
第1回 / 第2回#1 #2 / 第3回 / 第4回#1 #2 #3 #4 / 第5回#1 #2 #3 / 第6回#1 #2 / 第7回
 第5回 その2)・・田能村直入先生の墓所を訪ねて
田能村直入先生の墓・アイコン 訪問先  吉田神葬墓地・・・南画家 田能村直入先生の墓所  〔H19/1/28()〕
所在地  京都市左京区吉田下大路
交 通  最寄り駅:京阪電車「丸太町」駅
所縁の地  竹田市
 京都市左京区吉田山にある墓地。ここに田能村直入先生(1814〜1907)の墓がある。この墓地は「徒然草」の田能村直入先生の墓碑著作者である吉田(卜部)兼好一族の吉田神社に程近く、京都大学理学部・医学部も近い。神道の墓地であるのと、京都と言う土地柄か、当墓地に埋葬されている方々は位階を持っていた方が多い。
 なお、直入先生は竹田市の出身、旧姓は三宮、本名は癡。9歳で田能村竹田(タノムラ・チクデン)に師事、のち養子となって跡をつぎ、南画の世界に名を残した。一時大阪に住み、明治初年に京都へ移住した。因みに竹田の墓所は、大阪市内の四天王寺前夕陽ヶ丘駅「夕陽ヶ丘町」の淨春寺(前出)にある。
 直入先生は明治初期の京都府画学校(現、京都市立芸術大学)の創立に尽力し、初代校長に就任した。
主要作品『雪中山水図』。   (S.M)
  当日の訪問地 (はクリックで拡大)
墓碑正面には「直入先生の墓」と大きく記されている。
直入先生の墓
        周辺マップ
田能村直入の墓、3景
墓碑正面には
「直入先生の墓」と
大きく記されている。

墓所は吉田神葬墓地の中でも
京都市街が一望にのぞめる
大変眺めがいい高台にある。
お天気のいい日にお近くに
お立ち寄りの際は
是非お参り下さい!

(合掌)
写真右上は東山山麓 直入先生の墓(左脇に小さい墓標が見え「田能村家の墓」とある。)
左脇に小さい墓標が見え
「田能村家の墓」とある。
↑ポインターを画像に当ててみて下さい!
   周辺散歩 (吉田山)
吉田神社本宮
吉田神社本宮         
    境内にある吉田山俯瞰図
境内に表示されている吉田山俯瞰図→クリックで拡大!

「吉田神社」の由来
【 祭 神 】
 春日神である建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あまのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)を祀る。
【 由 緒 】斎場所大元宮
 貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。延喜式神名帳への記載はない(式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。
 鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田氏)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として1484年、境内に末社・斎場所大元宮;写真を建立した。
 近世始めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。
 吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。

前の頁へ戻る←第5回 その1 / 大徳寺・瑞峯院この頁のトップへジャンプ↑次の頁へ進む→第5回 その3 / 石清水八幡宮
 
関西大分県人会 郵便番号検索エンジンにジャンプ! 530-0001大阪市北区梅田1−1−3−2100 大阪駅前第三ビル21階
TEL:06−6343−0016 FAX:06−6345−0122 お問い合わせ mail はこちら!kansai-oita@ace.ocn.ne.jp