TOP > 同好会 > 二豊会 > 中津藩邸跡・福澤諭吉生誕地
第1回 / 第2回#1 #2 / 第3回 / 第4回#1 #2 #3 #4 / 第5回#1 #2 #3 / 第6回#1 #2 / 第7回
 第4回 その1)・・福澤諭吉先生の生誕の地、中津藩蔵屋敷跡を訪ねて
中津藩藩邸跡地の古地図 訪問先  中津藩蔵屋敷跡・・・福澤諭吉先生、生誕の地  〔H18/12/17()〕
所在地  大阪市福島区福島一丁目南、堂島川河畔
交 通  最寄り駅:阪神電車「福島」駅、JR東西線「新福島」駅
所縁の地  中津市
大分県の県鳥「メジロ」と県花・県木の「豊後梅」 「中津沖代ライオンズクラブ」から寄付された大分県の県木「豊後梅」大阪市福島区の旧大阪大学医学部・付属病院跡に朝日放送の社屋建設工事が行われていた為、福澤諭吉先生(1834〜1901)生誕の地を記念する石碑は、第1次訪問時(H18/12/17)は別保管されていたが、今回第2次訪問時(写真:H20/05/17)は移築前の様子に忠実に再現・再整備されていた。
 江戸時代、全国各地の物産はこの地に集められ、そして全国へ販売されていった、福澤諭吉生誕地(H18/12月現在)その為、各藩とも大阪駐在の産米売り捌き方の藩士を置いていた。この役にあたっていたのが福澤諭吉の父、百助である。この為、諭吉は大阪で出生した。この地の
案内板(写真下参照)を見ると近隣に臼杵藩、森藩、日出藩、岡藩の蔵屋敷があったことがわかる。
 また場所は離れているが福島区役所(近年国道をはさんで向かいの公園内敷地に移植)には大分現地の「中津沖代ライオンズクラブ」から贈呈された「豊後梅:写真」が植樹されている。 (S.M)
当日の訪問地 (はクリックで拡大) 右、または下のスクロールバーを操作して下さい!
藩邸跡地、当時の図面(現地の陶板)←クリックで拡大!点滅は豊前・豊後諸藩の藩邸跡地。大阪市立中央図書館所蔵「改正増補国宝大阪全図」より
藩邸跡地古地図(現地の陶板より)
中津藩以外の名もいくつか見える

 

周辺マップ / 別ウィンドウ
 
旧・中津藩邸(福澤諭吉生誕地)跡地(H18/12現在)
中津藩邸・福澤諭吉生誕地跡
(H18/12当時)
第2次訪問時参加メンバー
第2次訪問時参加メンバー
(H20/05現在)
現在この地は「ほたるまち(蕪村の句に因む)」と称し放送局・イベントホールなどが集積する大阪北地区の新名所となっている。川岸がうまく整備されたこの史跡前に於いても、野外イベントなどが計画されている。
幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る。時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)。こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。先生の父百助は一面に於いて、経學者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる。
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう。當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか。

H20/05現在の様子
碑文の内容(原文のまま)
昭和二十九年一月 慶應義塾社中建之
題字    小泉 信三
撰文    橋誠一郎
書      西川 寧

対岸の蛸の松
対岸の「蛸の松」
 蛸の松
 江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が並び、屋敷前には各藩自慢の松が植えられていました。人々は屋敷の白壁と川の流れに映る松の景色を楽しんだといわれています。
 なかでも、堂島川(旧淀川)のほとりの久留米藩と広島藩の境の浜の松(左上、陶板古地図にある旧位置)は、枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松(右写真)」と呼ばれる名木でした。月の夕べや雪の朝の眺めはとりわけ美しく絶賛されました。
現地にある「陶板の説明書き」の往時の様子 

前の頁へ戻る←第3回 永澤寺(ヨウタクジ)この頁のトップへジャンプ↑次の頁へ進む→第4回 その2 / 適塾
 
関西大分県人会 郵便番号検索エンジンにジャンプ! 530-0001大阪市北区梅田1−1−3−2100 大阪駅前第三ビル21階
TEL:06−6343−0016 FAX:06−6345−0122 お問い合わせ mail はこちら!kansai-oita@ace.ocn.ne.jp