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 第2回 その2)・・神大前身の神戸高等商業学校初代校長、水島銕也先生の偉業を偲んで
水島銕也先生胸像・アイコン 訪問先  神戸大学、正門前〜六甲台本館周辺キャンパス MAP  〔H18/5/14()〕
 所在地  神戸市灘区六甲台町2−1 (今回は六甲台キャンパスの訪問)
交 通  最寄り駅・阪急「六甲」駅下車、徒歩約20分前後。バスは「神大正門前」下車。
所縁の地  中津市
〔神戸大学〕 神戸市灘区六甲台町にある国立大学法人。
 神戸大学は、その前身は各種の学校が集まって現在の形となった。また、御影、明石、姫路にあった師範学校が教育学部となり、今、発達科学部になった。更には、神戸高等工業学校は工学部、兵庫県立神戸医科大学が医学部。兵庫県立農科大学が農学部、姫路高等学校が文学部、理学部になっている。更には神戸高等商船学校が神戸商船大学となり、創立時の神戸高等商業学校最近海事学部となった。これらの学部が、現在の神戸大学を形つくる基になったのが「神戸商業大学」である。
 その前身は官立神戸高等商業学校で明治35年に創立された。(※神大の沿革に「1902年3月 官立神戸高等商業学校設置。これをもって神戸大学開校の起点とする」 とある。)
 その後、大学に昇格し、神戸商業大学、神戸経済大学となり、昭和24年に神戸大学経済学部、経営学部、法学部となっている。
 神戸高等商業学校は、東京商法講習所、後に東京高等商業学校、東京商科大学、つまり現在の一橋大学に次ぎ、わが国で第二の経済専門のカレッジとして誕生した。戦前は、国公立では、経済学部関連で3つしかない単科大学として内外に有名であった。
(一橋・神戸・大阪市立の3校はいまだに3商大対抗の行事を持ち回りで実施している)

水島 銕也
 さて、この「神戸大学」の前身である「神戸高等商業学校」の初代校長となったのが、水島 銕也先生・・・クリックで拡大!豊前国中津藩出身の「水島 銕也(ミズシマ・テツヤ;1864〜1928)先生」である。
(姫路中卒、神戸商業講習所(現兵庫県立神戸商業高等学校)卒、東京高等商業学校(現一橋大学)卒。東京高商初代専攻部主事。)
 初代校長に就任した水島銕也は、実務を重視する観点から商業学校からの入学を認めるなど独自の入試制度や教育課程を整備し、東京高等商業学校との違いを際立たせた。
 現在の神戸大学はこの設立をもって開学の起点としていることからか、キャンパス敷地内のいたるところに水島先生の記念モニュメントが点在している。
 彼は一橋卒業後、学者として将来を嘱望されていたが、あえて神戸に着任し校長として神戸大学六甲台本館正面学校・学問の発展に尽力した。水島先生は中津藩では、増田宋太郎(西南の役の中津隊隊長)を中に福沢諭吉とは親戚になる。
 また、現在に至る兵庫神戸大分県人会(2007年現在会長;小串 昌也氏)を創設したことでも知られている。
 現在、郷里中津市金谷本町(カナヤホンマチ)には同校の同窓会である「(社団法人)凌霜会」により生家跡地に水島公園が造られている。  (S・M)

※2003年に兵庫神戸大分県人会は100周年を迎えました。その記念誌の沿革で、初代会長「水島銕也」先生についての逸話が記されております。氏の人となりが偲ばれる内容ですのでここに再録致しました。
〜 県人会創立と初代会長「水島 銕也」先生について 〜
 明治36年(1903年)官立の神戸高等商業学校(現神戸大学の前身)の設立直後、初代校長に任命された中津市出身の水島銕也先生は、向学心に燃えて入学してきた有為の若者が、ふる里の親元を離れ慣れない土地で寂しそうにしているのを見て、自らも幼い頃、父の早世で親元を離れ、叔父の元で生活したことと重なり、自分のふる里や地方から来ている学生に慰めの言葉をかけ、励ましているうち師弟の絆が強まって行ったと言う。学生は水島校長を先生を親父(慈父)として慕っていたとの記述がある。
 また水島先生は全く不思議な人徳を備えており、周囲はもとより知ると知らざるとを問わず、内外に多くの渇仰者と敬慕者とが出来ていたという。
 前任の一橋でも大阪でも、在職年数は短かったが一つの人格的中心であり当時の人々からは永く愛慕の的になっていたとのことである。
 水島先生は、神戸や大阪を中心とする官公庁、教育界、経済界、実業家など多くの人々との交流、親交を通じて、大分県出身の企業家などとの親交が深まり、県人会創立の機運の高まりと、会長職の依頼にこれを快諾、ここに神戸大分県人会が誕生したのである。37歳で教員検定委員、41歳時には神戸商工会議所特別議員に就任している。
 大正14年病気療養のため同校長を辞任するまで22年間にわたり、多くの要職を兼ね、神戸大分県人会長を勤めた。朝倉文夫氏作、水島銕也先生胸像。
 同校退任に当たり、教え子たちや関係者が先生の功績を称え校庭に寿像を建立した。奇しくもその胸像を彫塑したのは、大分県大野郡(現在;豊後大野市)朝地町出身東京芸大教授をし、文化勲章を受賞した東洋のロダンと称えられた*朝倉文夫氏である。
 県人会はこのような光輝ある初代会長水島先生により、創られ後世に引き継がれた伝統ある会である。歴代会長はじめ多くの会員に育てられ、一世紀を経た今日、益々隆盛を極める会になったことに対し、先人達の功績に感謝せねばと思う次第である。中津市では水島先生生誕の地を教え子、有志たちと共に整備し水島公園として市民に開放している。
 (兵庫神戸大分県人会 創立100周年記念誌より、原文)

*朝倉文夫(1883〜1964)
朝倉文夫氏 明治16年3月1日、上井田村(現大分県豊後大野市朝地町)池在に渡辺要蔵の三男として生まれました。10歳のとき養子として朝倉宗家を継ぎ、尋常小学校を卒業。19歳のとき竹田中学校を中退して上京しました。明治36年、東京美術学校彫刻選科に入学。在学中に1200点もの作品を制作し、明治40年、首席で卒業。その後は彫刻界の重鎮として活躍。大正8年に帝展審査員となったのを皮切りに、同10年に東京美術学校教授、同13年に帝国美術院会員となり、昭和23年には文化勲章を授与されています。その間、「墓守」など数多くの傑作を生み、驚異的な質と量の作品を残し「自然主義的写実主義」といわれる作風を確立しました。
 当日の訪問地 (はクリックで拡大)
神戸大学最寄り駅・・・阪急「六甲駅」
最寄駅、阪急「六甲駅」

周辺マップ / 別ウィンドウ
阪急「六甲駅」より北へ北へ長い坂を上る
神大・六甲台キャンバスへの途中の景観
高台に在る神大・六甲台キャンパス
へ至るの途中の景観
(この眺望でまだ3分の1程の道程)
六甲駅〜北へ北へ長い坂を上る
クリックで拡大します!
「六甲台本館」周辺の
キャンパスマップ
神戸大学・正門前
神戸大学・正門前
上段右イラストMAPの左下辺り
当日の参加メンバー
朝倉文夫作、水島銕也先生胸像・・・クリックで拡大!
水島銕也先生胸像

 

左胸像台座裏の碑文
贈;凌霜会(同窓会)
 

水島先生の
遺徳・遺業を
記した碑文

水島先生生誕100年
の記念モニュメント
(贈;凌霜会)
先生生誕100年を記念するモニュメント 六甲台本館正面
六甲台本館・・・当地名産の御影石を
ふんだんに使った重厚な建物で
現在も、経済学部、経営学部、
経済学研究科、経営学研究科
の教室で教鞭がとられている。
六甲台本館より記念モニュメント(上段中)を望む。楕円中は同キャンパス内の向学に燃える神大生の像
六甲台本館より記念モニュメント(上段中)
を望む。楕円中は同キャンパス内の
向学に燃える神大生の像
クリックで拡大!・・・六甲台本館1階の様子、御影石が贅沢に使用されている。(左;教室廊下)(右;中央階段)
六甲台本館1階内部の様子
御影石が贅沢に使用されている!
左;教室廊下 / 右;中央階段

 

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