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 第6回 その1)・・吉弘統家創建の傘堂を訪ねて
傘堂・アイコン 訪問先  傘堂 (奈良県指定、有形民俗文化財)吉弘統家(大友氏一族)の創建 〔H19/3/3()〕
所在地  奈良県葛城市染野字新山
交 通  最寄り駅:近鉄南大阪線「当麻寺」駅
所縁の地  国東郡武蔵郷
 奈良と大阪の府県境に位置する山脈の中央、生駒・信貴山の南に二上山がある。この山には大津皇子(663〜686)の御陵があることでも有名であるが、東側登山口に當麻寺と當麻山口神社がある。丁度、當麻寺の北側に神社と並ぶ形で柱1本だけでその上に屋根を乗せた形の風変わりな建物がある。
 この建物は江戸時代前期に大和郡山藩主本多政勝の菩提を弔う為にその家臣吉弘統家(よしひろ・のりいえ)が延宝2年(1674)に建てたものである。吉弘と言う姓は大友氏の一族で国東郡武蔵郷を治めていた豪族の姓である。現在も国東市武蔵町の字として残っている。大友氏は石垣原の合戦で黒田氏に敗れ、本家はかろうじて江戸時代は高家として残ったがその家臣であった吉弘氏がどのような経緯で本多家に仕官したかは詳らかではない。本多氏は氏姓辞典に拠れば発祥は豊後となっており、そういった意味で彼がこの奈良の地で仕官したのではなかろうか。ただ、この葛城の地に郡奉行をしていた統家が地域の人たちに大池(灌漑の溜池;マップ参照)を普請してあげたため、現在に到るまで、新在家、今在家、染野3地区の人により保護されている。傘堂図面アイコン
 傘堂は現在奈良県指定有形民俗文化財に指定されている。このあたりからは大和三山も展望できる素晴らしい場所である。
 蛇足ながら当地は古事記にしるされている相撲の祖、當麻蹴速(たいまのけはや)の出身地であり、所縁の相撲博物館もある。  (S.M)
 当日の訪問地 (はクリックで拡大)

傘堂の全容

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当日の参加メンバー→クリックで拡大!
当日の参加メンバー

傘堂に隣接の墓碑                 
現地にある傘堂の説明書より!
現地に配布されていた
リーフレットより
 現地に配布されていたリーフレットより
【奈良県指定 有形民俗文化財】
傘 堂 1 棟  附  梵鐘1口・位牌1基・石碑2基
所在地  葛城市染野 字 新山
所有者  新在家・今在家・染野  3地区共有
 二上山の東麓、當麻山口神社の鳥居北側に、真柱一本のみで宝形造りの瓦屋根を支える総欅作りの風変わりな建物がある。小振りながら重厚な風格を備え、他に類例のほとんどない珍しい建築遺構である。
 その形姿から、一般に「傘堂」と呼ばれているが、江戸時代前期にこの地の郡奉行を務めていた吉弘統家(ヨシヒロ・ノリイエ)が、主君である郡山藩主本多政勝(ホンダ・マサカツ)の没後、その菩提を弔うために、延宝二年(1674)に独自に建立した「影堂」「位牌堂」であることが、棟札やその他の資料から判る。もとここに吊り下げられていた梵鐘には、「恋王の私情に勝(た)えず」「一恩永伝」等の言葉が刻み込まれ、独特の君臣関係にあったことが推測される。
 この影堂は、統家らが開いた大池により益を蒙った付近の新在家、今在家、染野の三地区の人々によってその後も守り続けられ、特異な建立の経緯にもかかわらず、毀誉褒貶されることもなく、三百年以上もひっそりと歴史の流れの中に佇んできた。
 また、いつの頃からか真柱の周囲を身体を接しながら巡り、安楽往生を願う風習が生まれ、5月14日の當麻連座(タイマレンゾ)には大勢の人々がこの堂を訪れる。民俗、建築双方から注目されるとともに、柳沢家に至るまで変転を重ねた初期郡山藩にかかわる数少ない遺構としても貴重な存在である。
  周辺散歩 【相撲博物館】
當麻の蹶速と野見の宿禰との取り組み 近鉄当麻寺駅から當麻寺に至る間にある「相撲博物館」の土俵と大分出身の大横綱「双葉山」の勇姿
博物館館内の土俵と双葉山の勇姿

古事記の記述にある當麻の蹶速と
野見の宿禰との取り組みの場面
當麻蹶速の塚
相撲博物館前にある當麻蹶速の塚

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