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 第4回 その2)・・福澤諭吉先生所縁の適塾(第10代塾頭)を訪ねて
第10代塾頭福沢諭吉が学んだ適塾・アイコン。クリックで詳細ページへジャンプ! 訪問先  適塾・・・緒方洪庵設立の蘭学・医学塾 / 諭吉は第10代塾頭 〔H18/12/17()〕
所在地  大阪市中央区北浜3丁目
交 通  最寄り駅:京阪電車「淀屋橋」駅、地下鉄御堂筋線「淀屋橋」駅
所縁の地  中津市
 大阪市中央区北浜の京阪電車北浜駅の南東に当時の建物が大阪大学医学部の管理のもと博物館として保存されている。適塾は備中足守藩士であった緒方洪庵(1810〜1863)により設立された蘭学塾で、当初長崎へ遊学した諭吉が当時の蘭学レベルはこの適塾の方が先端を行っているということを教えられ、この塾へ入門した。1857年(安政4年)には第10代塾頭となった。
 適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。
 適塾敷地内公園にある「緒方洪庵像」この塾の門人は多士済々であるが大村益次郎(1824〜1869;第4代塾頭)など、明治維新の時に実務面で活躍した人が多い。また漫画家手塚治虫(適塾を題材にした作品「陽だまりの樹」に詳しい)の曽祖父も当塾で学んでおり、彼もまたこの塾の後身である大阪大学医学部に学んでいるのは興味深い。
 備中足守藩は木下氏二万五千石で豊後日出木下家とは兄弟藩にあたる。秀吉の正室ねねの実家である。諭吉達は塾生当時解剖等で使った牛・豚などを北浜の大川河岸でよく焼肉にして近所の不評をかっていたらしい。なお、洪庵の子孫は代々医学に志し、現在も近くで産婦人科を開業している。  (S.M)
    当日の訪問地 (はクリックで拡大)

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福澤諭吉先生胸像
福澤諭吉先生胸像
 

諭吉の適塾入門台帳(写し)。←クリックで拡大!

 

諭吉の入門台帳
       
 同年三月九日入門とある。
その右に、奇しくも2日前入門の
同郷、豊後佐伯高橋玄策の
名が見えるが「狂死」とある。

通称この「ヅーフ部屋」で使われた
オランダ語の辞書、参考書類
当時の塾生達はこれらの
辞書・参考書を奪い合い、
貪る様にして修学に励んだ。
オランダ語の辞書、参考書。
館内に展示されている製薬機器類
館内に展示されている製薬機器類

二階の塾生寄宿部屋の柱
ストレス発散によるものか?
無数の刀傷が遺こっている
邸内の土間・台所
土間・台所
 
諭吉書の掛け軸←クリックで拡大!
邸内の諭吉書 掛け軸 大意
適を適とする、すなわち自分の心に適することを適とする、言い換えると自分の心に適うところをたのしむ生活、それは何も自然の風月を楽しむだけのものではない。むしろ広くて見定めがたい俗世間に天の理にかなった真実があるというものだ。
 世の中が自分の思うとおりにならなくても、何も不満をこぼすことはないではないか。ことさらたくらむことなく真実に生きる人こそ、自分の思いを達する人なのだ。
館内に展示されている製薬機器類
館内に展示されている製薬機器類
  適塾玄関に掲げられた文化庁による案内書き (昭和50年5月3日)
 史跡       緒方洪庵旧宅及び塾 昭和16年12月13日指定
 重要文化財  旧緒方洪庵住宅 昭和39年05月26日指定
 所在地 大阪市東区北浜3丁目30番地  (旧 過書町丼池東入)
適塾創設者;緒方洪庵座像 この建物は、蘭学者緒方洪庵が弘化2年(1845)に住宅として買い受けて瓦町から移り住み、文久2年(1862)に幕府の奥医者として江戸へ迎えられるまでの17年間にわたって、私塾(適塾と呼ばれた)を開いたところである。
 洪庵はここで諸国から集った門人たちに蘭学を教え、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの人材を育てた。
 敷地は間口約12メートル、奥行約39メートルあり、建物はこの間口一ぱいに建てられ、前方の教室部と後方の居室部からなり南庭に土蔵と納屋がある。前方部は寛政4年(1792)の北浜大火災後まもなくの建築とみられ、第2次訪問(H20/05/17)参加メンバーもとは町筋に面する商家の形であったが、洪庵入居の際に背後を切り縮め、おもて造りの店を改めて教室とし、後方に居室部を新しく立て直した。
 教室部は二階建て、一階を教室、二階を塾生の部屋とし、居室部は一部二階建て西側に通り庭をもち、台所・書斎のほか四室がある。台所の二階には*ヅーフ部屋と女中部屋とがある。
 洪庵が出府してのち、再三の改造があり、大正四年(1915)には前面道路の拡幅によって正面を奥行き幅約1.2メートル切り取られたが、昭和51年(1976)からおこなった根本修理で、正面を除いて、概ね洪庵居住当時の姿に復原した。
 この住宅は、蘭学発展の拠点となった歴史を伝えるばかりか、近世における大阪北浜の町家建築の姿を示す貴重な遺例である。 
 写真;緒方洪庵座像;隣接の公園内 写真;第2次訪問(H20/05/17)参加メンバー
注)*ヅーフ部屋・・・貴重な「ドゥーフ・ハルマ( Doeff-Halma Dictionary, 通布字典、道訳法児馬)と呼ばれた江戸時代後期に編纂された蘭和辞典」は当時最高の蘭塾と評判の高かったこの適塾にも一部しか無く、わざわざ「ヅーフ部屋」と呼ばれるこの3畳程の別室に保管された。塾生が辞書を用いるに争う様を福澤諭吉は述懐している。また、外部から申し込まれる写本の依頼は、塾生たちの良い収入源ともなっていた。

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